講演

【講演】夢先生

人との繋がりと生きる力

皆さんにちは。プロボクサーの多田悦子です。今日は、3つのお話しをしたいと思っています。

一つ目は、私とボクシングの出会いについて。
二つ目は、人との繋がりについて。
三つめは、「生きる力」を育てようという話です。

ボクシングとの出会い

私は、アマチュア時代を含め人生の約半分、17年間ボクシングをやっています。ですが、最初からボクシングが好きでやりたかったわけではありませんでした。私は、幼いころとてもわんぱくで、小学生の頃は校長先生に「もう他校の生徒とケンカをしません。」という誓約書を書かされた程でした。学校に行くよりも外で遊んでいるほうが好きで、秘密基地を作ってそこで寝泊まりをしたりしていました。中学生になってからも、学校は給食のためだけに行っているようなものでした。
中学3年生になって進路を考える時期になっても、勉強はできないし、進学はせず働こうと思っていました。ある日、進路指導の遠藤先生に階段の踊り場に呼び出され、「どないするんや?」と聞かれ、私は働きたいと伝えました。遠藤先生は「どうしても働きたいのなら、夜間高校に通え。働きながらでも勉強はできる。」と言ってくれました。心のどこかで「どうせ自分なんか」という気持ちを持っていた私は、先生の話を聞こうとしませんでした。そんな私を先生は投げ飛ばしました。サングラスをかけた先生の頬に涙が伝っているのを見た私は、先生が心の底から心配してくれていることに気づきました。そして私は夜間高校である西宮香風高校に通うことになったのです。
最初の1年は、朝から夕方まで喫茶店で働き、夕方から高校に通うという生活をしていました。ある日、高校の前の歩道でバイクに乗った2人組に轢かれそうになり、言いがかりをつけられました。はじめは無視して通り過ぎていたのですが、その2人が他の集団とたむろし始めたのを見て、こいつら、次の標的を見つけて同じことをするなと思いました。私はモップを持って殴りかかっていきました。その日の夜、ケンカを聞きつけた担任から事情を聴かれました。私が説明をすると、「ケンカはよくない。だが、よくやった。その勇気は認める。」と言われました。翌日、ボクシング部の顧問から電話があり、ケンカのことを聞かれました。私はまた説明をしました。ボクシング部の顧問は私に「ケンカ自体はよくないが、そんなに元気ならボクシング部に来い。リングの上なら殴っても問題にはならんぞ。」と言いました。こうして、私はボクシング部に入部しました。
ボクシング部に入部した当時、私は「ボクシングなんて余裕や。」と周りに話していました。ところが、初めての試合で私は2-1の判定で負けてしまったのです。試合後の率直な感想は、「なんてしんどいんや。もう、ボクシングなんかしたくない。」でした。しかし私は、周りに「余裕や。」と話していたのです。負けて終わりにすることができませんでした。それでボクシングを続けることになりました。次の試合では、しっかりと練習をして臨み、勝利しました。
当時、女子のアマチュアボクシングは非公認でした。2001年に第1回アジア選手権大会に出場した際、私がメダルを獲れば女子ボクシングが公認されるかもしれないという状況でした。監督からは「あんたにかかってるんやで!」と、プレッシャーをかけられました。結果、銅メダルを獲得し、2003年に女子ボクシングは公認されました。2004年のアテネオリンピックで女子のボクシングが正式種目になるという話がありました。「こんな私でもオリンピックに出場できるかも。メダリストになりたい!」私にとっての夢ができました。しかし、正式種目になることはなく、次の2008年の北京オリンピックでも採用されませんでした。私は夢を失いました。
そんな時、女子のプロボクシングが公認されることになりました。京都のジムの会長に「えっちゃん、一緒に女子ボクシングを盛り上げていかないか」と声をかけてもらい、私はプロボクサーになることを決めました。
私がプロボクサーになるときに心に決めたことがあります。1つは、世界チャンピオンになること。もう1つは、ボクシングで食べていけるボクサーになること。
アマチュアボクシングとプロボクシングとでは色々な違いがあります。まず、アマチュアで使用していたヘッドギアをプロはつけません。グローブも薄く小さくなるので、当たった時の衝撃は比べ物になりません。デビュー戦で勝利しましたが、私はプロの恐ろしさを感じました。「このままでは世界チャンピオンにはなれない。」ここから、私は身を入れてトレーニングするようになりました。
プロデビューして約1年後に世界挑戦のチャンスがきました。何が何でもチャンピオンになる!そう誓いました。今までに感じたことのない怖さを感じました。怖さを振り払うために必死でトレーニングしました。それでも試合前日は怖くて眠れませんでした。2009年4月11日、私はWBA世界ミニマム級チャンピオンになりました。嬉しさよりも「言ったことを守れた!」その安ど感が強かったのを覚えています。

人との繋がり

ボクシングに出会い今日に至るまでに、様々な人に出会い、引きあげてもらい、助けられてきました。中学の頃の遠藤先生もその一人です。今でも親交がある高校時代の恩師には、練習後よく銭湯やご飯に連れて行ってもらいました。アジア大会で銅メダルを獲った後、「もうボクシングやらんでいいやろ」と練習にでなかった時期がありました。そんな気持ちで出場した試合で敗退し、恩師からは「お前には裏切られた」と言われました。この一言が胸に突き刺さりました。「先生をもう一度喜ばせたい。」この気持ちでボクシングを続けることにしました。
女子のアマチュアボクシングが非公認だったころ、女子ボクシングの普及のために全力を注いだ方がいます。原さんという女性です。ボクシングの大会を開催するために自分の貯金の使い、海外遠征にも監督として自費で同行してくれました。これだけ必至でボクシング普及のために尽くしてくれている人を目のあたりにして、私の原さんの期という期待に応えたいと思いました。
世界チャンピオンになって、3度目の防衛戦はトリニダード・トバコでありました。治安が悪いこの国には、日本人が40人弱いるのですが、全員が応援にかけつけてくれました。滞在しているホテルが山の上の廃墟のようなホテルだったのを知り、別のホテルを手配してくれたり、大使館で食事の用意をしてくれたりと協力してもらいました。試合中、6ラウンド目に「もうこのまま倒れてもいいかな」と思う瞬間がありました。応援団の「えっちゃ~ん!」という声が聞こえていなかったら、踏ん張れていなかったかもしれません。
トリニダード・トバコには、私が世界チャンピオンになる前からずっと応援してくれていた小泉さんという方も日本から駆けつけてくれました。「ラスト〇秒!」と叫ぶ小泉さんの声は大歓声の中でもしっかりと聞こえました。自分が信頼している人の声って、試合中もはっきり聞こえてくるんですよね。この小泉さんの口癖が、「えっちゃん。人は人との繋がりやけん。」でした。
遠藤先生に出会わなければ、ボクシング部の監督に出会わなければ、原さんに出会わなければ、トリニダード・トバコで日本人に助けてもらっていなければ、小泉さんがいなければ…今の私はなかったと思います。悪さもしたし、やんちゃだった自分がここまで来れたのは、要所要所で人との出会いがあり、気づかされ、引き上げてもらたからです。皆さんにも、そんな出会いがこれからいっぱいあると思います。人との出会い、繋がりを大切にしてください。

 生きる力

ボクシングに出会うまで、私はやんちゃで悪さもいっぱいしました。今考えてみると、自己表現の仕方が分からなかったのだと思います。自信もありませんでした。ボクシングに出会い、自分の弱さとも向き合いました。試合では相手と向き合いますが、それまでは自分との戦いです。そこに打ち勝って初めてリングに立てるとおみます。私にとってボクシングは自己表現の場となり、ボクシングを通して自身も持てるようになりました。自信とは自分を信じる力だと思っています。そして、自信が「生きる力」となるのです。皆さんにとってそれは何ですか?勉強が苦手でもいいんです。何か一つ、得意なこと、夢中になれることを見つけてほしいと思います。一生懸命に努力しているときって、努力しているとも思わないものです。後になって振り返ると、「ああ、あの時必死だったな。夢中で頑張ってたな」と思うものです。そして、そう感じているとき、あなたは自分の殻を破っていると思います。その「何か一つ」が分からない、見つからない人は探し続けてください。きっと見つかります。一度きりの人生です。人とのつながりを大切に、「生きる力」を磨いていってほしいと思います。

ありがとうございました。

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